2010年12月22日水曜日

昭和のにおい

いい写真です。

1950年代(60年前)に撮影された
団塊世代の私の親が生まれたころの写真です。

1970年代生まれの私も昭和のなつかしさに
つい癒されて時間を忘れてしまいました。

当時の人たちの生き生きとした感情が伝わってきます。

http://gf080616.orange-mail.net/l/0vim1t62m1872027

仕事の合間にどうぞ

2010年12月15日水曜日

伝えるということ

こんばんは、

編集長の田口和幸です。

大好きな、じいちゃんが亡くなりました。
大正生まれの、熊本育ち、頑固で口の悪い
じいちゃんで、口癖は「このバカもん」でした。

でも本当は家族想いの、
優しいじいちゃんです。

じいちゃんは、中学を出ると、
病弱で働けない両親に代わり、
8人の兄弟を養っていたそうです。

貧乏だった、じいちゃんは、家に鶏や牛を飼い、
本業は、墓石職人とミカン農家として、朝早くから
夜遅くまで、一生懸命働き何とか生活していました。

弟や妹を高校に通わせ兄弟達は、
無事に社会人になりました。

じいちゃんは28歳の時、親の進める、
ばあちゃんと結婚しました。

その後、母を含め3人の娘が
生まれました。

そして20年後、初孫の私が生まれました。
じいちゃんは、初孫である私
をとても可愛がってくれました。

とても厳しかったじいちゃんが、
私のことになると、とても甘いのです。

母が出産を終え、実家に帰っている
間は、ずっと私にべったりでした。

じいちゃんは、私の名前決め、
出産祝いの準備など等、全て自分で
決め大忙しでした。

親の意見などあったもんじゃありません。
意見などすると、その場で雷です。

「私の生まれたときは、ほったらかしだったのに。」
と母は思ったそうです。

産後休暇を終えた母と私は、父の元へ帰りました、。
帰る時、じいちゃんは、とても寂しそうに
私をじっと見つめ別れを惜しんでいたそうです。

母は、「じいちゃん一生の別れじゃないんだから、
また来るからそんな顔しないでよ。」
じいちゃんは、「またな」と言って
手を振って見送ってくれました。
私が大きくなって話せるようになると、
じいちゃんは毎日のように電話攻撃です。

そして、その一年後、「母のまた来るね、」
が、帰ってくるねに変わったのです・・・

母は、働かず、酒とギャンブル、暴力をふるう父にかわり
近所のスーパーに勤めながら、私を一生懸命養ってくれました。

しかし、僅かな給料ではとても生活できず、
私をつれ、じいちゃんの家に帰ったのです。

勤めに出て忙しい母に代わり、じいちゃんは、
私の面倒を見てくれました。

保育園に毎日送迎し、保育園が終わると、
自分の墓石工場に連れて行き、遊ばせてくれ
私はすっかりじいちゃん子です。

そして、じいちゃんは、私が27歳のとき
倒れ病院に運ばれました。

じいちゃんは、末期の血液の癌でした。
私はそれを受け止め、歯を食いしばり、
忙しい仕事の合間をっ見つけては、
じいちゃんを励ましていました。

日々やせ細っていく姿を見ているのは本当に辛かったです。

そして、人工透析の途中で意識を失い、
人工呼吸器でただいかされている状態でした。

最後を迎える時は、意識が無いはずなのに、
両目に大きな涙を流して無くなりました。

その涙には、決して口に出しては言わなかった。
「ありがとう。後は頼んだぞ」というメッセージだと思いました。

生粋の九州男児のじいちゃんに育てられた私は、
「今まで大事に育ててくれて、ありがとう」という
一言が言えませんでした。

本当に後悔しています。

思っていることは、言葉にしないと
伝えることはできないと実感しました。

しかし、人前で話すのが何よりも苦手なので、
苦手な口で伝えることは諦め、
文章で一人でも多く伝えるという道を選びました。

そして、平秀信の門をたたき、インプロビックで働いています。

よく、コピーは、物を売るための手段やテクニックだと
勘違いしている人がいますが、、
私は「困っている人を助けるための道先案内人」だと思っています。

私を紙の上の伝道師に育ててくれたのは、
この教科書があったからです。
http://www.improbic.net/con/underg/specialoffer.pdf

2010年12月3日金曜日

みにくいアヒルの子


こんにちは、
田口和幸です。
今朝、英語研究会リーダーの西川直輝が、
サイト解説の収録を行っていたのですが、
USPについて新たな気づきがあったようです。
つい先ほど、彼の解説を見たのですが、
今ある、USPにもう一つ加えるだけで、
こんなに変わるのかと、驚きました。
西川が、おこなった動画解説をアップしましたので、是非みてください。
みにくいアヒルの子が、白鳥とわかった日!

2010年12月1日水曜日

危険です!



















この写真何だと思いますか?



こんにちは

田口和幸です。

あなたは、プロピレングリコールをご存じでしょうか?

30歳で大病をし、肌も弱い私は、
最近、健康について勉強を始めたのですが、

毒を口から取り入れて場合、20%は吸収され、
残りの80%は排泄されるそうです。

しかし、
肌から浸透した毒は、80%~90%吸収されてしまうそうです。

この事実を知った時には、ぞっとしました。


話は戻って、

プロピレングリコールは、PG、プロパンジオール、
ジヒドロキシプロパンとも書かれ、

シャンプー・はみがき・化粧品・洗剤・育毛剤などの
保湿剤として幅広く使われています。
老若男女問わずよく使われるものです。

一般的には、あなたの、お肌を保湿するものとして認識されていますが、
実は、製品を固まらないようにするために使われているものです。

例えば、昔のはみがきは、フタを開けっぱなしにしたら
固りましたが、今は固まらないですよね。

もともとは、エンジンオイル・作業油の不凍液
・産業用凍結防止剤などとして使われていたものです。

他にも、
・ウェットティッシュ
・赤ちゃんのお尻拭き
・コンビニのおにぎりなど
いろいろなものに使われてきたようです。

アメリカFDA(日本の厚生省にあたる機関)は、
皮膚炎、染色体異常、赤血球の減少、肝臓・腎臓
・心臓・脳への障害を報告しています。

ドイツなどでは、日用品への使用が禁止されている「発がん性物質」です。
(おそらく、使用しているのは、日本だけだと思います。)

もちろん、合法の範囲で使われていますが、
実は、基準の1つである、腕の「パッチ」テストを行われるのですが、
腕を1とすると、背中はその16倍も敏感だそうです。
女性でリンスを使う人に、背中のニキビが多いというのも納得です。

冒頭の写真は何なのか?

そうです。
シャンプー工場に入っていくトラックには、
危険物のマークが付いています。

今、プロピレングリコールが経皮毒として、
皮膚から体に入ることがわかっています。

なぜなら、工場では皮膚に触れることがないように、
作業員さんは、地下鉄サリン事件の時に科学班が着ていた
防護服を着て扱います。

いろんな本に、危険と書かれていますが、
最近になってやっと騒がれだしました。

あなたの奥さんや娘さんは、有害化学物質が入った化粧品で
お肌を手入れされているかもしれません。。。

シャンプーは髪をフサフサにできますか?
おしりふきは赤ちゃんに安全ですか?

今すぐ、家にあるこれらの商品の成分表を確認してください。

「病気になってからでは、遅いのです。」

プロピレングリコールが入っていたら今すぐ捨てて、
入っていないものを使ってください。

私の使っていた、洗剤にも使われていました。
CMをバンバン打っている超一流企業の製品です。。。


※ピンとこないかも知れませんが、これが成分表示に、
「サリン」と書かれていたら、あなたはどうしますか?

そうです。

「サリン」は、猛毒で怖いと誰もが知っているので使わないのです。

知らないって本当に怖いですね。

私のボスである、平秀信は、

「正しい知識を貪欲に吸収しろ」というのが口癖です。

つまり、良い書物、良い研修などから正しい知識を吸収することで、
自らを成長させると共に、自己防衛をし家族や大切な人を守りなさい
と事なのです。

会社経営も同じです。
正しい知識を吸収し、あなたの大事な、家族や社員さんを守ってください。
http://www.improbic.net/con/hongkong/sem.php

それでは、私は、知識を吸収しに、図書館に行ってきます!

私が、インプロビックで働くミッションです。
http://www.improbic.net/download/pdf/prof/taguchi.pdf