2010年12月15日水曜日

伝えるということ

こんばんは、

編集長の田口和幸です。

大好きな、じいちゃんが亡くなりました。
大正生まれの、熊本育ち、頑固で口の悪い
じいちゃんで、口癖は「このバカもん」でした。

でも本当は家族想いの、
優しいじいちゃんです。

じいちゃんは、中学を出ると、
病弱で働けない両親に代わり、
8人の兄弟を養っていたそうです。

貧乏だった、じいちゃんは、家に鶏や牛を飼い、
本業は、墓石職人とミカン農家として、朝早くから
夜遅くまで、一生懸命働き何とか生活していました。

弟や妹を高校に通わせ兄弟達は、
無事に社会人になりました。

じいちゃんは28歳の時、親の進める、
ばあちゃんと結婚しました。

その後、母を含め3人の娘が
生まれました。

そして20年後、初孫の私が生まれました。
じいちゃんは、初孫である私
をとても可愛がってくれました。

とても厳しかったじいちゃんが、
私のことになると、とても甘いのです。

母が出産を終え、実家に帰っている
間は、ずっと私にべったりでした。

じいちゃんは、私の名前決め、
出産祝いの準備など等、全て自分で
決め大忙しでした。

親の意見などあったもんじゃありません。
意見などすると、その場で雷です。

「私の生まれたときは、ほったらかしだったのに。」
と母は思ったそうです。

産後休暇を終えた母と私は、父の元へ帰りました、。
帰る時、じいちゃんは、とても寂しそうに
私をじっと見つめ別れを惜しんでいたそうです。

母は、「じいちゃん一生の別れじゃないんだから、
また来るからそんな顔しないでよ。」
じいちゃんは、「またな」と言って
手を振って見送ってくれました。
私が大きくなって話せるようになると、
じいちゃんは毎日のように電話攻撃です。

そして、その一年後、「母のまた来るね、」
が、帰ってくるねに変わったのです・・・

母は、働かず、酒とギャンブル、暴力をふるう父にかわり
近所のスーパーに勤めながら、私を一生懸命養ってくれました。

しかし、僅かな給料ではとても生活できず、
私をつれ、じいちゃんの家に帰ったのです。

勤めに出て忙しい母に代わり、じいちゃんは、
私の面倒を見てくれました。

保育園に毎日送迎し、保育園が終わると、
自分の墓石工場に連れて行き、遊ばせてくれ
私はすっかりじいちゃん子です。

そして、じいちゃんは、私が27歳のとき
倒れ病院に運ばれました。

じいちゃんは、末期の血液の癌でした。
私はそれを受け止め、歯を食いしばり、
忙しい仕事の合間をっ見つけては、
じいちゃんを励ましていました。

日々やせ細っていく姿を見ているのは本当に辛かったです。

そして、人工透析の途中で意識を失い、
人工呼吸器でただいかされている状態でした。

最後を迎える時は、意識が無いはずなのに、
両目に大きな涙を流して無くなりました。

その涙には、決して口に出しては言わなかった。
「ありがとう。後は頼んだぞ」というメッセージだと思いました。

生粋の九州男児のじいちゃんに育てられた私は、
「今まで大事に育ててくれて、ありがとう」という
一言が言えませんでした。

本当に後悔しています。

思っていることは、言葉にしないと
伝えることはできないと実感しました。

しかし、人前で話すのが何よりも苦手なので、
苦手な口で伝えることは諦め、
文章で一人でも多く伝えるという道を選びました。

そして、平秀信の門をたたき、インプロビックで働いています。

よく、コピーは、物を売るための手段やテクニックだと
勘違いしている人がいますが、、
私は「困っている人を助けるための道先案内人」だと思っています。

私を紙の上の伝道師に育ててくれたのは、
この教科書があったからです。
http://www.improbic.net/con/underg/specialoffer.pdf

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