2010年11月18日木曜日

なぜ私は、平秀信の下で働いているのか・・・

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  1. なぜ私は、「世界TOP企業トヨタ」の
    仕事よりも、
    「平秀信」を選んだのか・・・

                       
    こんにちは、株式会社インプロビックの田口です。
    すこしだけ私のことをお話してもよろしいでしょうか?

    スポーツが好きで、小学生の時、夏はソフトボール、冬はサッカー部に所属。高校では、駅伝部に高校3年の秋に、ニューイヤー駅伝に出場している鳥取県の某ホテルからスカウトされました。
    訳あって、プロランナーは断念しましたが・・・(汗)


    1973年3月生まれ、出身は、島原の乱の主人公、天草四朗で有名な、熊本県天草市です。複数の島に5つの橋が架けられていて、電車のない、みかん畑に囲まれた、人口10万人ほどの、絵に描いたような、ド田舎です。

    高校卒業後、地元の大手自動車部品関連会社(トヨタ関係)に入社、エンジニアとして採用され、コンベアー生産の工程設計、製品工法の考案、作業指導等を行い、21歳の時に海外派遣指導員に選抜され、オセアニア地域の西サモアで6ヶ月間のプロジェクトを終え帰国、帰国後はレクサスの担当として18年間勤務、家を建て、28歳で結婚、子供も授かり幸せな生活が待っているはずでした・・・

    朝7時から深夜3時まで仕事づけの毎日で、30歳の1月29日雪の降り積もる夜、自宅で今までに味わったことのない激痛が、胸から脚のつま先にかけて襲いました。額には脂汗、体は動かない、左足が痺れ自分の意思では動かない。妻はお産前で実家に帰っていて、部屋には誰もいない、やっとの思い出30cm離れた携帯電話を手にし、母屋に住む祖母に電話し救急車を呼んでもらいました。

    心臓専門の救急車で2時間かけて熊本市内の病院に搬送。一夜明け、意識うつろな私にドクターが、「田口さんの病名は、急性動脈乖離です。心臓より下の血管が裂けています、直ちに手術しなければ左足は切断しなければいけません。」

    そして、左鎖骨の動脈から腹部まで血液を送るため、人工血管バイパス手術を受けました。その後しばらく安静状態が続き、点滴の管が両手、両足、首に3本の計7本も繋がれている状態で過ごしました。左足は麻痺したまま歩けず、専用の装具を作り何とか歩けるようになりました。

    肉体がベッドの下に落ちていく感覚に襲われ、生きていく気力さえなくし、気がつくと点滴をはがし、5階のベランダから飛び降りようとしていたらしく、担当のナースに引き止められ、ひどく叱られたこともありました。

    でも不幸なことばかりではありませんでした。必死でやっていたリハビリの成果が現れ奇跡的に歩けるようになり。同年5月25日待望の女の赤ちゃんが生まれた。嬉しくて、嬉しくて、なりふり構わず飛び跳ねた。そして毎日産婦人科に通いました。

    8月になり精密検査を受けた私にドクターは、「心臓のすぐ下にある動脈に瘤が出来ています。解離性動脈瘤です。」と告げたそして手術しないと5割の確立で年内に死亡します。と言われました。手術の内容は、胸部から腹部にかけ切開し心臓を取り出し心臓直下から腹部にかけ、人工血管と取り替えるとのこと、今のままでは、年内に死亡する確率50%手術しても生存率60%で半身不随は覚悟して欲しいといわれました。死を覚悟するしかありませんでした。

    目の前が真っ暗になった、ただボーとその場で立ち尽くしていた。生まれたばかりの娘の為に生きないとただそれだけを思い次の検査と手術日を決めて帰宅した。そのことを聞いた妻は確かにショックを受けていた。そして手術入院の前日、妻は私の前に離婚届けを・・・(決して妻が悪いわけではありません、そこまで追い詰めた私の責任なのです。)

    唯一の救いは、娘のたった1枚の写真です。6年たった今も幼い娘のまま大切に持っています。
    いっそ・・・と思ったことも、1度や2度ではありません。。。

    本当に恐ろしいくらいの偶然なのですが、そんな時に弊社社長の平秀信(ひら ひでのぶ)の
    著書「凡人の逆襲」に出会い、そして「凡人の野望」に紹介されているブレインダンプに出会い、衝撃を受け、またとても不思議な縁もありのちに、株式会社インプロビックに転職をすることになります。









    私は、MMSを購入し必死でマーケティングの勉強をしました。しかし、エンジニアの私には、サイドビジネスで実践する他なかったのです。それでも歯を食いしばり勉強を続け、平社長のあらゆる教材を購入し、セミナーにも参加していました。

    運命の2008年3月30日。

    平社長の長野の自宅で行われた高額のコピー道場に参加し、「うちのコピーを書いてみないか」平の一言でサラリーマンを続けながら、睡眠時間を惜しんで月に970個のメルマガを書いたこともありました。

    そして、半年が過ぎ「東京に出て平社長の下で直接働きたい」そんな想いが日に日に大きくなり、手弁当で修業することを覚悟し、その旨を平社長に勇気を振り絞り伝えました。その答えは・・・
    「私に人生をあずけないでください。」というものでした。

    「ガーン・・・」そう、その時の私は依存心が高かったのです。

    それでも諦めず、再チャレンジ、そしてOKをもらったのです。

    しかし、この時は本当に苦労しました。「結婚するより離婚するほうが何倍も大変だ!」などと言いますが、わたしにとっては、会社を辞める方が離婚するより大変でした。(苦笑)

    3週間に及ぶ上司や同僚からの引き止め、両親や祖母からの反対と引き止めの説教を受けました。しかし、私が根気強く説得すると最後は皆分かってくれ、5日間に渡り述べ100人を超える人たちが送別会と激励会を行ってくれました。(この時ばかりは、ありがたくてトイレで泣きました。)

    話はもとにもどりますが、当時の平は「社員は奴隷だ」とか「非道徳」を演じていたので、世間からは、厳しい人、冷たい人として誤解を受けていました。また、それを否定もしませんでした。

    しかし、35歳を過ぎて大病を抱えこの先活躍するかどうかもわからない私を引き受けてくれたのです。これが、平秀信の本当の姿なのです。

    平は、本当の意味で私の第2の人生に命を吹き込んでくれたのです。本当に、本当に感謝しています。これが、「世界TOP企業トヨタ」の仕事よりも、「平秀信」を選んだ理由です。

    そして、私は入社して、わずか1年後に平のプロジェクトに参加しました。

    この時私は、「日本中で悩んでいる経営者の方に、1人でも多く平秀信を合わせ、1秒でも早く悩みを解決する。そのために、私は誰にも負けない世界一の平秀信の伝道師たれ」そう心に誓いました。

    そして、2009年8月平秀信が孤独の旅から帰り、私が携わったプロジェクトは次の通りです。

    ・平秀信の月刊戦略会議(全11回)
    ・平秀信を囲む会
    ・平式チラシ道場
    ・コピーライティング道場
    ・ブレインダンプ・アドバンス
    ・平秀信のプライベートクラブ(第1期生 全6回 進行中)
    ・平秀信のマインドセット(もうすぐ365本です)
    ・平秀信の自宅ホットシート・コンサル
    ・建設復興プロジェクト

    など、数多く活躍の場をもらっています。平秀信を始めとする会社のメンバー、温かい目で育ててくださるクライアントさん、遠く熊本で心配してくれ心の支えとなる家族や友人・・・皆さんに感謝しています。

    長々と申し訳ありませんでしたが、私はこのような人間です。ご縁があれば、またセミナーなどで
    お会い出来ることを楽しみにしております。取り急ぎご挨拶までですが、今後ともどうぞよろしく
    お願い致します。


    追伸
    これからも伝道師として「平秀信のマインド・ノウハウ」を1人でも多くの人にお伝えするために全力を尽くし頑張っていきます。しかし、少人数制で行っていますので、手が足りない時もあります。ですから、大変申し訳ありませんが、「ちょっと相談が…」とか「教えて欲しいんだけど…」というようなことがあれば皆様の方から、是非ともお気軽にお声をかけて頂きたいのです。
                             
    ご心配なこと・ご不安なことがあればわたくし田口までどうぞご遠慮なくご連絡ください。
    メルマガ、DMなど集客を専門に行っています。本当に「集客」のことで真剣にお悩みの方には、
    私の持っている知識・経験・技術を駆使して全力でお手伝いします。

    またお会いできる機会を心よりを楽しみにしています。

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